森の瞳と虹の聲

La voix entre l’ombre et la lumière

La voix entre l’ombre et la lumière

Chapitre X

息の音が、扉をひらく

息の音が、扉をひらく

白い息が             夜へほどけて             音になる

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スマートフォンが震えたのは、 午前の光がまだやわらかい時間だった。 画面に浮かぶ名前。 胸の奥の緊張が、ひとつほどける。 <ルル> 「お兄ちゃん!ママと日本に一時帰国するよ! 数日お兄ちゃんのところ泊まっていい? ママはお仕事でホテルだけど、シュガーにも会いたい!」 文字の間から、弾む声がこぼれてくる。 翠は短く息を吐き、返信を打つ。 「もちろん。待ってる。気をつけておいで」 送信してから、少しだけ迷い、もう一言足した。 「シュガー、喜ぶよ」 その瞬間、足元でクリーム色の毛玉が動く。 シュガーが伸びをして、翠の足首に頬を擦りつけた。 「……わかるのか」 小さく笑い、窓を開ける。 外はいつも通りの東京。 けれど、部屋の空気はわずかに変わっていた。 誰かが来るだけで、 音の鳴り方は、少し変わる。 * 夕方。 玄関のチャイムが鳴る。 ドアを開けると、そこにいたのは── 小さな白い風だった。 「おにいちゃーーん!」 抱きついてくる細い腕。 背中に回る力は軽いのに、心だけが持っていかれる。 「ルル……大きくなったね」 「だって、八歳だもん!」 笑うと、頬がふわっと赤くなる。 淡い金に近い髪と、明るい瞳。 この街にいながら、 遠い国の光を連れてきたようだった。 玄関の奥から、シュガーがそっと顔を出す。 「シュガ──!」 ルルはすぐにしゃがみこむ。 シュガーは警戒するかと思いきや、 ためらいなく近づき、小さな手に鼻先を寄せた。 「……あ、覚えてる」 嬉しそうに笑い、毛並みを撫でる。 シュガーは目を細め、喉を鳴らす。 翠は、その光景を黙って見ていた。 胸の奥の固い部分が、ゆるやかにほどけていく。 ルルの荷物は軽い。 フルートのケースだけが、 少しだけ重みを持っている。 「ね、今回も持ってきたの」 誇らしげに言う。 「練習してるの、聴かせてくれる?」 「もちろん!」 ルルはリビングへ飛び込み、 床に座るとケースを開く。 宝物を扱うみたいに、フルートを取り出した。 「おにいちゃん、ピアノ弾いて。いっしょにやりたい」 翠は一瞬、まばたきをする。 「……いいよ」 “いっしょに” その一言が、胸の奥に残る。
夜。 ルルはマジネコのアニメを流しながら、 ソファで丸くなる。 シュガーはその隣に収まり、 尻尾でルルの足を撫でるように揺らしていた。 「この回、シュガーちゃんがね、最後に言うの。 『君の好きはまだ輝いてる』って」 「……うん」 “まだ輝いてる”。 その言葉が、なぜか、あの夜の音に似ていた。 「ねえ、おにいちゃん。きょう、配信する?」 「……する予定だったけど」 「じゃあさ、コラボしよ! わたしフルート、吹けるよ!」 まっすぐな笑顔に、翠はうなずく。 「……少しだけ」 「やった!」 ルルは跳ねるように立ち上がり、フルートを構える。 翠はピアノの前に座る。 画面の向こうには、いつもの匿名の世界。 けれど今日は、隣に小さな呼吸がある。 配信を開始する。 コメントが流れ始める。 《コラボ!?》 《かわいい声》 《フルート!?》 《天使きた》 ルルが不安そうに翠を見る。 「大丈夫。息を、ゆっくり」 深く頷く。 最初の音が鳴る。 フルートは、息そのもの。 声に近く、けれど声よりも遠くへ行く。 翠のピアノが、その細い音を受け止める。 ルルの音は、無垢だった。 まっすぐで、軽い。 その軽さに触れた瞬間、 翠の音に余白が生まれる。 いつも静かな場所に、 今夜、音が返る。 そして、気づけば。 指は、あの旋律へ向かっていた。 意図ではなかった。 ただ、そこに入る音があった。 鍵盤の上を、風が走る。
雲が晴れ、 空がひらけるような音。 ルルがすぐに息を重ねる。 フルートが、空へ羽ばたく。 コメントが一気に増える。 《やばい》 《泣いた》 《天才》 《この曲なに!?》 《風…》 終わった瞬間、ルルは息を切らして笑った。 「おにいちゃん、いまの曲……すごい!」 「……うん」 翠は笑わない。 笑えなかった。 胸の奥で、何かが静かに鳴り続けている。 ルルは嬉しそうにシュガーを抱き上げ、 頬を擦りつける。 配信を終える。 画面が暗くなる。 部屋に残ったのは、音の余韻と、 ルルの呼吸と、シュガーのぬくもり。 それとは別に、 まだ輪郭を持たない音が残っていた。 * 同じ夜。 別の場所。 暗い部屋で、スマートフォンの画面だけが光る。 再生されたアーカイブ。 ピアノとフルート。 そして──あの旋律。 息を呑む音が、誰にも届かない場所で落ちる。 指先が、送信欄をひらく。 迷いは、一瞬。 きみのせいで眠れない 送信。 画面が静かに閉じる。 部屋には何も残らない。 ただ、鳴り続ける音だけが、胸の奥で灯っていた。
スマートフォンが震えたのは、 午前の光がまだやわらかい時間だった。 画面に浮かぶ名前。 胸の奥の緊張が、ひとつほどける。 <ルル> 「お兄ちゃん!ママと日本に一時帰国するよ! 数日お兄ちゃんのところ泊まっていい? ママはお仕事でホテルだけど、シュガーにも会いたい!」 文字の間から、弾む声がこぼれてくる。 翠は短く息を吐き、返信を打つ。 「もちろん。待ってる。気をつけておいで」 送信してから、少しだけ迷い、もう一言足した。 「シュガー、喜ぶよ」 その瞬間、足元でクリーム色の毛玉が動く。 シュガーが伸びをして、翠の足首に頬を擦りつけた。 「……わかるのか」 小さく笑い、窓を開ける。 外はいつも通りの東京。 けれど、部屋の空気はわずかに変わっていた。 誰かが来るだけで、 音の鳴り方は、少し変わる。 * 夕方。 玄関のチャイムが鳴る。 ドアを開けると、そこにいたのは── 小さな白い風だった。 「おにいちゃーーん!」 抱きついてくる細い腕。 背中に回る力は軽いのに、心だけが持っていかれる。 「ルル……大きくなったね」 「だって、八歳だもん!」 笑うと、頬がふわっと赤くなる。 淡い金に近い髪と、明るい瞳。 この街にいながら、 遠い国の光を連れてきたようだった。 玄関の奥から、シュガーがそっと顔を出す。 「シュガ──!」 ルルはすぐにしゃがみこむ。 シュガーは警戒するかと思いきや、 ためらいなく近づき、小さな手に鼻先を寄せた。 「……あ、覚えてる」 嬉しそうに笑い、毛並みを撫でる。 シュガーは目を細め、喉を鳴らす。 翠は、その光景を黙って見ていた。 胸の奥の固い部分が、ゆるやかにほどけていく。 ルルの荷物は軽い。 フルートのケースだけが、 少しだけ重みを持っている。 「ね、今回も持ってきたの」 誇らしげに言う。 「練習してるの、聴かせてくれる?」 「もちろん!」 ルルはリビングへ飛び込み、 床に座るとケースを開く。 宝物を扱うみたいに、フルートを取り出した。 「おにいちゃん、ピアノ弾いて。いっしょにやりたい」 翠は一瞬、まばたきをする。 「……いいよ」 “いっしょに” その一言が、胸の奥に残る。
夜。 ルルはマジネコのアニメを流しながら、 ソファで丸くなる。 シュガーはその隣に収まり、 尻尾でルルの足を撫でるように揺らしていた。 「この回、シュガーちゃんがね、最後に言うの。 『君の好きはまだ輝いてる』って」 「……うん」 “まだ輝いてる”。 その言葉が、なぜか、あの夜の音に似ていた。 「ねえ、おにいちゃん。きょう、配信する?」 「……する予定だったけど」 「じゃあさ、コラボしよ! わたしフルート、吹けるよ!」 まっすぐな笑顔に、翠はうなずく。 「……少しだけ」 「やった!」 ルルは跳ねるように立ち上がり、フルートを構える。 翠はピアノの前に座る。 画面の向こうには、いつもの匿名の世界。 けれど今日は、隣に小さな呼吸がある。 配信を開始する。 コメントが流れ始める。 《コラボ!?》 《かわいい声》 《フルート!?》 《天使きた》 ルルが不安そうに翠を見る。 「大丈夫。息を、ゆっくり」 深く頷く。 最初の音が鳴る。 フルートは、息そのもの。 声に近く、けれど声よりも遠くへ行く。 翠のピアノが、その細い音を受け止める。 ルルの音は、無垢だった。 まっすぐで、軽い。 その軽さに触れた瞬間、 翠の音に余白が生まれる。 いつも静かな場所に、 今夜、音が返る。 そして、気づけば。 指は、あの旋律へ向かっていた。 意図ではなかった。 ただ、そこに入る音があった。 鍵盤の上を、風が走る。
雲が晴れ、 空がひらけるような音。 ルルがすぐに息を重ねる。 フルートが、空へ羽ばたく。 コメントが一気に増える。 《やばい》 《泣いた》 《天才》 《この曲なに!?》 《風…》 終わった瞬間、ルルは息を切らして笑った。 「おにいちゃん、いまの曲……すごい!」 「……うん」 翠は笑わない。 笑えなかった。 胸の奥で、何かが静かに鳴り続けている。 ルルは嬉しそうにシュガーを抱き上げ、 頬を擦りつける。 配信を終える。 画面が暗くなる。 部屋に残ったのは、音の余韻と、 ルルの呼吸と、シュガーのぬくもり。 それとは別に、 まだ輪郭を持たない音が残っていた。 * 同じ夜。 別の場所。 暗い部屋で、スマートフォンの画面だけが光る。 再生されたアーカイブ。 ピアノとフルート。 そして──あの旋律。 息を呑む音が、誰にも届かない場所で落ちる。 指先が、送信欄をひらく。 迷いは、一瞬。 きみのせいで眠れない 送信。 画面が静かに閉じる。 部屋には何も残らない。 ただ、鳴り続ける音だけが、胸の奥で灯っていた。

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