鎌倉の山荘は、
空気まで昔のまま。
門をくぐると、
木々の匂いが胸に落ちてくる。
街の音は、
ここまで届かない。
玄関へ向かう前に、
扉の向こうで優しい気配が動いた。
「いらっしゃい」
紗英の声は、
相変わらず少し高く、やわらかい。
「ちょっと早いんだけどね、山菜が手に入ったのよ」
理由は聞かれない。
そのさりげなさだけが、
胸に残る。
奥から、
軽い足音。
「今日はこれが合うと思って」
地下から戻ってきたリュシアンが、
白ワインのボトルを掲げて微笑む。
その動作だけで、
部屋の空気がふっとほどけた。
通されたリビングは、
西洋と東洋が、
ためらいもなく並んでいる。
古いソファー、
低い卓。
光だけが、
昔からここにいるように、
静かに差し込んでいる。
梅昆布茶が置かれ、
湯気の向こうで紗英が翠を見る。
「どうしたの?」
短い問い。
けれど、
探る影はひとつもなかった。
「……力の制御で」
翠は視線を落とし、
ゆっくり言葉を選ぶ。
「ある人に近づくときだけ、代償が、少ないんです」
紗英はすぐには答えず、
ただ穏やかに頷いた。
「その方は、今どこ?」
「パリです。急に、仕事で戻られて」
「そう」
一拍。
それから、
静かに言う。
「……そういう方が、現れたのね」
翠は少し迷ってから、
「……はい」
と答えた。
紗英の微笑みは、
押しつけがましくなく、
ただそっと寄り添うようだった。
「その人にとって、あなたは大切な存在なのかもしれないわね」
「ギタリストで……」
翠が続けると、
紗英は小さく息を吐いて微笑む。
「音が、繋いでいるのね」
「はい」
「いまのあなたで、十分よ」
許されたような、
静けさだった。
翠は、
ほんの少し勇気を拾うように口を開く。
「……実は」
胸の奥が揺れ、
言葉がいったん止まる。
「初めてなんです。誰かを“会いたい”って思ったのは」
紗英の表情が、
やわらかく緩む。
「そう。よかったわ」
それ以上は踏み込まない。
ただ、
祈るようにそばにいる。
「ご縁はね、祈りとよく似ているの。
結び方は、あなたが決めなさい」

台所から、
油の音が立ち上がる。
リュシアンが、
揚げたての皿を運んできた。
「手伝う?」
紗英が立ち上がり、
翠を見る。
「……はい」
「じゃあ、ワイングラスを三つ」
翠は頷き、
棚に向かう。
食卓には、
静かなあたたかさが満ちていた。
ほろ苦い山菜、
白ワイン、
刺身、
山椒の香り。
会話は途切れがちなのに、
その沈黙はどこまでも優しい。
抑えつけない。
閉じない。
そのまま、
置いていい。
呼吸が自然に深くなる。
帰り際、
紙袋を手渡される。
「これ、持っていきなさい」
苺のシフォンケーキ。
甘い匂いが、
ふわりと広がる。
「ありがとうございます」
門を出ると、
夕方の光が山の端に残っていた。
答えは、
まだ形を持たない。
けれど──
戻れる場所が、
そこにあった。
翠は、
ゆっくりと歩き出した。

