会場の中は、
思っていたより静かだった。
まだ客席はまばらで、
照明は落とされ、
舞台の輪郭だけが淡く浮かんでいる。
スタッフが足早に行き交い、
抑えた声で確認を重ねていた。
翠は、
エリーの少し後ろを歩く。
案内される通路は客席ではなく、
舞台の内側へと続いていた。
ここがどこなのか。
その輪郭が、
ゆっくり薄れていく。
楽屋前の壁に、
紙が貼られている。
プログラム。
Elie Moreau – Solo Live
その文字が、
胸の奥に静かに落ちた。
──今日、なのか。
エリーから、
何かを聞いていたわけではない。
ただ名前を呼ばれるまま、
後をついてきた。
行き先もわからないまま、
気づけば、
舞台の内側にいた。
これは、
エリーの仕事の場所だ。
舞台。
空気の温度が、
そっと変わるのを感じた。
*
リハーサルが始まる。
ギターの音が、
広い空間にひとつずつ置かれていく。
正確で、
迷いがなく、
音だけで空気が整っていく。
その隣で、
ピアノが応える。
若い男の、
まっすぐな指。
音は美しい。
整っている。
なのに、
ほんのわずかだけ、
呼吸が合わない。
説明できるほどの違いではない。
ただ、
胸の奥に小さな揺れが残る。
音が前へ出る。
寄り添いより、
わずかな張りつめが先に立つ。
翠の視線が、
そっと揺れた。
ピアノに向かうその男は、
姿勢がよく、
動きに迷いがなかった。
ここにいることが自然で、
美しいとも思える。
足場が、
ふっと曖昧になる。
エリーはスタッフに囲まれ、
静かに指示を出していた。
プロの顔。

少しだけ、
遠い。
声をかけるタイミングを、
何度か逃す。
邪魔をしてはいけない気がした。
それでも、
ふと視線が合う。
一瞬。
何も触れないのに、
その目だけが、
やわらかくほどけた。
胸の奥が、
静かに落ち着く。
リハの合間。
エリーが低く言った。
「……今日、俺のライブ」
翠はわずかに驚き、
それから頷く。
「……今日、なんだ」
エリーは短く続けた。
「来てくれて、よかった」
ただそれだけ。
けれど、
“ここにいていい”が、
伝わった。
開演が近づく。
客席に人が増え、
ざわめきが戻ってくる。
照明が落ち、
音がいったん消える。
翠は、
舞台のすぐそばに残されていた。
客席でもなく、
演奏者でもなく。
ただ、
エリーの“内側”にいる。
まだ触れていない、
エリーの場所。
その奥へ続く気配を、
静かに見つめていた。

