連日の公演が、ようやく一区切りついた。
ステージを降りたエリーは、
軽い声の響きだけを残して笑っていた。
冗談を言い、肩を叩き、
「最高だったな」と何度も言う。
揺れのない笑顔──
乱れの影がどこにもない。
バーでの打ち上げ。
グラスのぶつかる音。
音楽の話に混ざる明るい空気。
エリーは、その輪の中心にいた。
明るく振る舞っているのに、
ふとした瞬間だけ“ひとり”の気配が滲む。
それは、昔から変わらない彼の癖だった。
「そういえばさ」
メンバーのひとりがスマホを取り出す。
「この人さ、すごく上手いんだよ。
たまたま今日、配信しててさ」
深い意味のない軽い調子。
エリーはグラスを持ったまま、
ふと画面に目を落とした。
次の瞬間、息が止まった。
胸の奥で、昨日の“あの音”が、わずかに揺れた。
ピアノの音。
顔は映らない。
言葉もない。
ただ白い手が鍵盤に触れるたび、
空気の密度が、静かに変わっていく。
柔らかい。
風のような、ひと筋の光のような。
重なっていた雲が、少しずつほどけていく。
──違う。
これは、自分が作ってきたものとは質が違う。
エリーの音は、いつも均されていた。
乱れを隠すように磨かれた響き。
天才ほど整ってしまう嘘。
でも、この音は。
作っていない。
拒んでいない。
エリーは何も言わずに立ち上がる。
「え、どこ行くの?」
「……風に当たる」
それだけ言って上着を羽織り、ギターを掴む。
扉を開けたとき、
胸の奥で支えていた音が、かすかに外れた。
同じ頃。
翠は、自宅のリビングで配信を切ったところだった。
グランドピアノの蓋を閉じ、ゆっくり息を吐く。
胸の奥に残っている旋律。
形にはした。
けれど、まだどこか満ちきらない。
足元で、小さな気配が動いた。

シュガーが出て行かず、
じっと見上げたまま、小さく鳴く。
「……ミャ」
その声が、一瞬だけ配信に紛れ込んだ。
翠は、それを止めなかった。
鍵盤から離れても、
部屋の空気が、どこか柔らかい。
胸の奥に、確かな変化がある。
コーヒーでも、猫の温度でもない。
触れたくなるような音の気配だけが、まだ静かに残っていた。
名前は──
思い出せない。
それでも、何かが足りないことだけは分かっていた。
翠はジャケットを手に取る。
夜の空気に触れたくなった。
理由は、まだ言葉にならない。
同じ夜。
ふたりはほとんど同じ時間に、同じ公園へ向かっていた。
一人は、手放しきれない音を抱えたまま。
もう一人は、まだ足りない音を探しながら。
まだ、
出会う理由も、呼び合う声もない。
ただ──
先に動き出していたのは、
ふたりのどちらでもなく、
静かに続いていた旋律だけだった。

