ベンチの上で、
二人の距離は、自然と近づいていた。
夜の公園は静かだった。
風に揺れる葉の音と、遠い車の気配だけがある。
翠が口ずさんだ、あの素朴な旋律。
スープの匂いと一緒に記憶に残っている、
やさしくて短い歌。
その一瞬を、エリーは逃さなかった。
肩にかけたギターを構え、
指先でそっと弦を鳴らす。
旋律はそのままに、音がふくらんでいく。
まるで──
同じはずの旋律が、
温度を帯び、香りを深め、
違う表情を見せ始める。
翠は、息をのんだ。
(……すごい)
自分の音だ。
間違いなく、自分が歌った旋律なのに。
こんなふうに抱きしめられるなんて、
知らなかった。
尊敬と、驚き。
胸の奥が、静かに追いつかなくなる。
翠は、そのまま歌った。
今度は、言葉をのせて。
イタリア語で。
Anche nel buio più profondo
se alzi gli occhi, la luna c’è
(どんなに深い闇の中でも
見上げれば、月はそこにある)
La luce non scompare mai
resta, anche quando tremi
(光は決して消えない
震えているときでさえ、そこに残っている)
Le mani non arrivano al cielo
e il respiro a volte fa male
(手を伸ばしても、空には届かない
息をすることさえ、苦しい夜もある)
ma io cammino accanto a te
divento vento, ti porto via
(それでも、僕は君の隣を歩く
風になって、君を連れていく)
verso il punto dove la luce nasce
(光が生まれる場所へ)
最後の音が、夜に溶けた。

エリーは、言葉を失っていた。
意味をすべて理解したわけじゃない。
でも──
buio(闇)
luna(月)
luce(光)
vento(風)
音と音の隙間から、
感情だけが、まっすぐ胸に落ちてくる。
気づけば、頬を熱いものが伝っていた。
「……あ」
声にもならない。
翠は、何も言わなかった。
理由も聞かなかった。
ただ、ポケットから白いハンカチを取り出し、
視線を合わせないまま、そっと差し出す。
エリーは、それを受け取って、かすかに笑った。
「こんなふうに……
白いハンカチを渡されたの、はじめてだよ」
そして、少し照れたように肩をすくめる。
「Sérieusement…
on se croirait dans un film.」
(本気でさ……
映画の中みたいだ)
そう言った。
もう一度、ギターを抱え直す。
けれど、今度の音は違っていた。
あれほど得意だった、
ゴージャスな和音は影を潜め、
鳴るのは、濃紺から黒へと沈んでいくような、
静かな世界。
暗く、深く、息をひそめた音。
そこに、かすかな呼吸だけが残る。
翠は、黙っていられなかった。
言葉は要らない。
ただ、ハミングで。
そっと重ねる。
風を送るように。
手を伸ばせるように。
その瞬間──
音が、浮かんだ。
拍手が、夜を破った。
二人は、はっとして顔を上げる。
気づけば、公園の周囲には人だかりができていた。
誰もが、スマートフォンを掲げている。
「あれ……エリーじゃない?」
「え、マジ?」
フラッシュが走る。
二人は同時に理解した。
──まずい。
視線を交わし、言葉もなく、
それぞれ逆方向へと歩き出す。
夜は、再び静かになった。

自宅に戻った翠は、ソファに腰を下ろし、
スマートフォンを手放した。
画面には、次々に動画が流れている。
《公園ライブ最高》
《この人だれ?》
《エリーのファン?》
《彼氏?》
息を吐く。
窓の外には、満月が浮かんでいた。
「……そうか」
あの曲は。
月の力が引き寄せたんだ。
奇跡みたいに聞こえた音。
足元に、シュガーの温もりを感じながら、
翠は静かにピアノへ向かった。
まだ足りない音がある。
でも──
今夜、それがどこにあるのかだけは、わかっていた。
