エリーは、冷静だった。
自分に言い聞かせるように、
テーブルの上のスマートフォンを手に取る。
アップされた動画を、ひとつ残らず再生していく。
もう一度、あの音を聴きたかった。
そして──
あの青年が、本当にそこにいるのか
確かめたかった。
画面の中の夜の公園。
街灯の光の中で、
ギターを抱えた自分と、
その横でハミングしている青年。
動画を指で広げる。
画面が、少しだけ拡大される。
ふと、指が止まる。
細く、白い指。
歌いながら、わずかに動く手。
薬指の横。
小さな、ほくろ。
「……」
息が、わずかに浅くなる。

視線を逸らす。
花瓶の中の白いチューリップ。
あの日、彼が何も言わずに置いていった花束。
まだ、やわらかく開いている。
胸の奥で、何かが静かに噛み合う。
偶然だと思っていた点が、
ゆっくりと線になっていく。
エリーはスマートフォンを持ち直す。
メンバーとのトーク画面。
「前に言ってた、あのピアニストのチャンネル、
教えてくれる?」
数秒後、通知音。
表示された名前。
sugar
「……sugar?」
LIVEのアーカイブを再生する。
今度は、音だけではなく
そこにいる人間を見るように。
鍵盤の上で踊る指。
長い睫毛が、静かに影を落とす。
そして、やはりそこにある、あのほくろ。
「……翠」
名前が、自然にこぼれる。
間違いではない、
と、どこかで分かってしまう。
一曲、また一曲。
やわらかな響き。
透明な旋律が、
赦すように、胸の奥をほどいていく。
エリーは目を閉じる。
これまで自分の音に、
足りないものなどないと、思っていた。
けれど──
胸の奥が、わずかに軋む。
「……出たい」
その呟きは、
部屋の空気へ溶ける。
気づけば、朝方だった。
眠れないまま、スマートフォンを手に取る。
DMの画面。
“君のせいで眠れない”
短い一文。
あまりにも正直すぎる。
送信ボタンの上で、指が止まる。
まだ、違う。
画面を伏せる。
代わりに、ギターを手に取る。
昨日、公園で生まれた旋律。
月の下で、重なった音。
指先を置き、弦を鳴らす。
同じはずの旋律が、どこか落ち着かない。
無意識に、わずかに力が入る。

──ぱちん。
乾いた音。
六弦が、切れていた。
エリーは、しばらく動かない。
こんなに強く弾いたつもりはなかった。
指先に残る、細い震え。
焦っているのか。
それとも──
まだ言葉にならない衝動なのか。
答えは出ない。
切れた弦を外さず、
そのまま、もう一度鳴らす。
不完全な和音。
少し濁った音が、静かな部屋に広がる。
それでも──
確かに、鳴っている。
眠れない夜の、その先へ。
