返事は、来なかった。
画面を閉じてから、
もう何度も時刻だけを確かめている。
暗い部屋の中で、
スマートフォンの光だけが白い。
エリーはソファに深く沈み、
ギターを抱えたまま、弦に触れずにいた。
送ってしまった言葉は、消えない。
”À cause de toi, je ne dors pas.
(君のせいで眠れない)”
送信音が、思ったより大きく響いた気がした。
あの瞬間から、夜が静まり返ったまま動かない。
軽すぎたかもしれない。
重すぎたかもしれない。
どちらにせよ──
返事は来ない。
*
翌日は仕事だった。
朝からリハーサル。
打ち合わせ。
通し。
修正。
誰かに声をかけられれば、
いつも通り笑えた。
冗談も言えた。音も外さない。
問題ない。
そう振る舞うことはできた。
けれど、
弦を押さえる指に、わずかに力が入る。
ピッキングが少しだけ鋭くなる。
休憩時間、
ポケットの中の重みを思い出す。
スマートフォン。
取り出さない理由を探して、
そのまま一日を終えた。
*
次の朝。
ホテルの部屋。
カーテンの隙間から、淡い光。
いつもの癖で、チャンネルを開く。
通知。
──配信。
五分。
照明の落ちた、暗いサムネイル。
再生。
最初の一音で、
呼吸が止まった。
「……」
フルート。
細く、軽く、芯のある音。
その下に──
ピアノ。
喉の奥が、ひりつく。
(……俺の曲だ)
いや、違う。
“あの夜”の曲。
背中に冷たいものが走る。
画面の奥、
影の中でフルートを吹くのは──小さな背丈。
子ども?
姿は曖昧なのに、
音だけがはっきりと輪郭を持っている。
これは、返事なのか。
……いや。
考えすぎだ。
彼が知っているはずがない。
コメントが流れる。
《天使?》
《フルートやばい》
《昨日の人!?》
《誰?》
《会いたい》
──会いたい。
その言葉に、
なぜか指先が熱くなる。
DM画面を開く。
打つ。
”会いたい”
止まる。
削除しかけて、やめる。
息が浅い。
……まだ、早い。
言葉より安全な距離。
エリーは短く打ち直した。
”公園で”
送信。
それ以上は書かなかった。
*
夜。
いつものベンチへ向かう。
けれど、そこには人影があった。
若い声。
スマートフォン。
小さな期待。
──来るかもしれない。
あの配信が広がったせいだ。
足を止める。
(……今日は、無理か)
振り返ろうとした、そのとき。
口笛。
短く、控えめな音。
あの夜のフレーズの断片。
振り向く。
白い影。

走り出したのは──
彼の方だった。
「……!」
エリーも反射的に走る。
夜気が冷たい。
吐く息が白くほどける。
追いついた瞬間、
互いの呼吸がぶつかった。
言葉は出ない。
辿り着いたのは、マンションの前。
彼は振り返らないまま鍵を開ける。
エリーは何も言わず、ついていった。
*
エレベーター。
狭い箱の中、
わずかに距離が近い。
鏡に二人が映る。
視線は合わない。
数字だけが、ゆっくり上がる。
わずかに感じる体温。
触れていないのに、意識に残る距離。
扉が開いた。
*
部屋に招き入れられた瞬間、
エリーは息を呑んだ。

広いリビング。
大きな窓。
夜景。
そして──
一台のグランドピアノ。
「……」
言葉が出ない。
ここが、彼の世界。
音の生まれる場所。
ここに、自分が入ってしまったのだと
遅れて実感する。
二人はまだ何も言わない。
けれど、
もう逃げる距離ではなかった。
心臓の音だけが、残る。
まだ、近いまま。
