扉が閉まった、その瞬間だった。
ほんの一歩、距離が詰まって──
抱きしめていた。
強くもなく、
確かめるほどでもなく、
体温だけが、そこにあった。
同時に、離れる。
息が、一瞬止まる。
間が落ちる。
「……あ、はは」
エリーが、肩をすくめる。
「会いたかった」
少し遅れて、
「ほんと」
「……ごめん」
翠は小さく言う。
体が、先に動いていた。
「いや、いいって」
エリーは笑って、手を振る。
「公園、やばかったな。人、めっちゃいた」
「……うん」
会話が続く。
それで、少しだけ、息が戻る。
玄関を抜け、リビングへ。
夜景が、窓いっぱいに広がる。
街の光は遠く、部屋の中は静かだった。

グランドピアノが、
黒い影としてそこにある。
「どうぞ」
翠が言って、
大きめのソファを示す。
「飲み物……ハーブティーならあるけど」
「いいね」
少し間を置いて、
「アルコールは?」
「ない」
「……じゃあ、それで」
少しだけ笑って、
二人分のカップを用意する。
湯気が立ちのぼる。
香りが、空気をゆるめる。
「……あ」
エリーが、ふと思い出したように言った。
「メッセージ、ありがとう」
「……」
「ルルがね」
翠は、先に言った。
「眠れないって言葉、気にしてて。
子守唄、吹きたいって」
「……ルル?」
「妹。八歳」
ふと、フランス語がこぼれた。
意識するより先に。
エリーの眉が、わずかに上がった。
「……話せるじゃないか」
「少しだけ」
「最初から話せよ」
拗ねたみたいな声音。
それが、妙に人間らしくて、翠は目を伏せた。
「まあ、いいけど」
エリーは肩をすくめて、カップを口に運ぶ。
「でもさ。あの子……」
「?」
「フルート、かなりうまい」
「……そう?」
「プロ並みだ。ほんとに」
翠は、小さく頷く。
「……息が、きれいなんだ」
しばらく、沈黙。
カップの底が、静かに触れる。
エリーが、ゆっくり息を吸った。
「なあ」
「……」
「ここ数日」
視線を外したまま、言う。
「君の音が、頭から離れない」
指先に、少しだけ力が入る。
「良かったら」
エリーは、少しだけこちらを見る。
「何か、一緒に作らないか」
静かな提案だった。
「……」
翠は、すぐには返さない。
カップの縁に、指が触れる。
「……考えさせて」
「……どうして?」
「……怖い」
言ったあと、少し遅れて、息が浅くなる。
「家族と、先生以外と……」
そこで、言葉が切れる。
「……」
「音、は、」
指先が、わずかに止まる。
「……隠してるところ、触られるから」
落ちたままの視線。
「……怖い」
「……」
エリーは、何も返さない。
少しして、肩がわずかに動く。
「じゃあさ」
視線を落としたまま。
「俺を人だと思うな」
「……?」
「ギターだと、思えばいい」

言葉は、もういらなかった。
呼吸だけが、揃わないまま、続く。
音が、触れる。
離れる。
また、触れる。
カーテンの隙間が、わずかに明るくなる。
それでも、止まらない。
音の中で、時間だけが、先にほどけていく。
