朝の光は、静かに部屋へ入り込んできた。
カーテン越しに滲む淡い白。
夜を弾いた指先に、まだ微かな熱が残っている。
ピアノの横に、ギターが無造作に立てかけられていた。
それを見て、翠は一瞬、現実に戻る。
その時、インターフォンが鳴った。
「お兄ちゃーん!」
聞き慣れた声。
ドアを開けると、
そこには大きな紙袋を両手に抱えたセシルと、その横でぴょんと跳ねるルルがいた。
「ボンジュール!」
セシルは明るく笑って、翠を軽く抱きしめる。
「市場でね、いい野菜がいっぱいあったの。
今日はちゃんと食べさせようと思って」
「……ありがとう」
その背後で、ルルが部屋を覗き込み──
一瞬、目を見開いた。
「……え?」
一拍。
「……エリー?」
ルルが声を上げ、セシルが遅れて固まる。
「……ちょっと待って」
ゆっくり、視線が合う。
「……エリー?」
「ボンジュール、マダム」
エリーは、何事もなかったように微笑んだ。
セシルは数秒、言葉を失い──
次の瞬間、両手で口を押さえた。
「……うそ」
「……本物?」
「……え、ちょっと、うちの家に、なんで?」

翠は、少しだけ間を置く。
「……流れで」
「……そういうこと?」
セシルは一度深呼吸してから、ぱっと表情を切り替えた。
「……いいわ」
「とりあえず、朝ごはん作るから、まだゆっくりしてて」
その言い方は、完全に“客人を迎えた家族”のそれだった。
*
キッチンには、温かい匂いが満ちていく。
フライパンの音。
刻まれる野菜。
鍋の中で、スープが静かに揺れる。
エリーはカウンターに寄りかかりながら、その様子を眺めていた。
「料理、好き?」
「まあね」
セシルは手を止めずに答える。
「似てるでしょ。組み合わせと、間」
「同意する」
ルルはソファに座って、エリーのギターケースを指差した。
「ねえ、ちょっと弾いて」
「いいよ」
何気なく弾かれた、生の音。
ルルのフルートが、すぐに重なる。
二人はすぐに呼吸を合わせてしまう。

「ねえ」
ルルが目を輝かせる。
「一緒にやればいいのに」
「私も、やる」
「……前のめりだな」
エリーが笑う。
その様子を、翠は少し離れた場所から見ていた。
音だけが、静かに触れてくる。
朝食は、賑やかだった。
笑い声。
器の音。
他愛のない会話。
ひとしきり時間が過ぎて、夕方が近づく。
「そろそろ行くわね」
セシルが言う。
「今日はありがとう」
「また来る!」
ルルは何度も手を振った。
エリーも立ち上がる。
「俺も、準備しないと」
「……うん」
玄関で、短い挨拶。
「またね」
その言葉は、軽かった。
なのに、残った。
*
扉が閉まる。
部屋に、静けさが戻る。
さっきまで確かにあった温度が、すっと引いていく。
翠は、しばらくその場に立ったまま、動けなかった。
……さっきまで、一緒にいた。
音を交わして。
朝を迎えて。
笑って。
(……会いたい)
今日は、配信の日だ。
翠は、ピアノの前に座った。
鍵盤に、そっと指を置く。
何かが、弾ける気がした。
音が、生まれる。
夜は、もうすぐそこだった。
