配信開始から、三分。
画面の向こうで、わずかに空気が変わった。
いつもの、静謐で、息をひそめるような旋律ではない。
鍵盤に触れた瞬間から、音が跳ね上がる。
旋律が、遠くへ伸びた。
翠自身が、一番驚いていた。
(……こんな音、)
指は、迷わない。
一瞬だけ、距離のない空気がよぎる。
柔らかな髪が、鼻筋をかすめた気がした。
考えるより先に、身体が反応する。
胸の奥で、小さく何かが脈打つ。
──会いたい。
音が、少しだけ変わる。
コメントが、流れ始める。
「なにこれ……!」
「今日、全然ちがう」
「なんか明るい……」
「空が見える」
フォロワーたちの言葉が、画面を埋めていく。
でも、翠はもう、それをほとんど読んでいなかった。
心臓の音だけが、やけに近い。
(……こんなこと、起こるんだ)
何かが、少しずつほどけていく。
──彼は、きっと聴いている。
理由はない。
でも、きっと聴いている。
今頃どこかで、ギターを片手に、この音に触れている。
その姿が、なんとなく浮かぶ。
翠は、音をそっと研ぎ澄ませていった。
弦に触れるあの指を思い浮かべる。
音ではなく、その呼吸の近さが胸を熱くする。
ピアノだけ。
余計な装飾は、いらない。
そして、歌う。
今日は、日本語で。
声は柔らかく。
でも、芯を持って。

どんなに深い闇の中でも
見上げれば
月はそこにある
光は
決して消えない
震えているときでさえ
そこに残っている
手を伸ばしても
空には届かない
息をすることさえ
苦しい夜もある
それでも
僕は君の隣を歩く
風になって
君を連れていく
光が生まれる
その場所へ

最後の和音が、ゆっくりと消えていく。
一拍。
翠は、そっと息を吸う。
「……会いたい」
音の終わりに、息だけが残った。
誰に向けたものか、画面は知らないまま、静かに閉じていく。
部屋にはまだ微かな震えだけが漂い、
夜の奥へ、ゆっくりと溶けていった。

