森の瞳と虹の聲

La voix entre l’ombre et la lumière

La voix entre l’ombre et la lumière

Chapitre XVI

触れてしまった、その先で

触れてしまった、その先で

触れた温度の奥で

眠っていた夜が開く

まだ、戻れない

0:00 / --:--
翠すいは、配信が終わってからも、 その余韻を抱えたままだった。 まだ、音がかすかに揺れている。 落ち着こうとしても、 呼吸だけが静まらない。 ──思い返せば。 幼い頃。 名前を呼ばれない日が続き、 世界の温度は、いつも少し低かった。 鍵盤に触れている間だけ、 心のざわめきが、どこか遠くへ引いていった。 イタリアで出会った師匠。 初めて、ありのままの自分を見てくれた人。 「いい音だ」 「そのままでいい」 「お前も、恋をするといい」 よく、そう言っていた。 でも。 ──誰かを、自分から想うなんて。 そんな未来は、 自分には遠いものだと思っていた。 それなのに。 今は、抑えきれない。 (……エリー) 会いたい。 名前を思っただけで、 胸が、ひとつ痛む。 その瞬間だった。 インターフォンが鳴った。 心臓が跳ねる。 モニターに映った顔を見て、 呼吸が止まる。
──エリー。 開けるか。 開けないか。 一瞬だけ迷い、 それでも「はい」と返した。 スピーカー越しの、低い声。 「俺も、会いたい」 その一言で、 胸の内側が静かにほどけた。 扉が開く。 エリーが、部屋に入ってくる。 ほんの数時間前まで一緒にいたのに、 何日も会っていなかったような気がした。 近づいた瞬間、 互いの腕が自然に回る。 強く抱いたわけじゃない。 それでも、離れられなかった。 翠が何か言おうとしたとき、 エリーが低く、決めた声で言う。 「……考える、はもうなしだ」 翠の喉が震える。 「……会いたかった」 ほとんど、息のような声。 ふたりは、 逃げ場のない距離で見つめ合う。 触れた、と思った。 次の瞬間、 唇の温度が、確かにそこにあった。 ──その瞬間。 胸の奥で、 何かが静かに開いた。
井戸の底。 暗闇の中で泣いている子供。 押し寄せる冷たさ。 言葉にならない孤独。 視界が揺れ、 涙が止まらなくなる。 「……どうした?」 エリーの声。 でも、もう焦点が合わない。 意識が、薄く霞む。 ──けれど。 いつもなら、 そのまま熱に沈んでいくはずだった。 今日は、違った。 あたたかい手のひらが、 翠を支えていた。 倒れない。 ふらつきながらも、 意識はここにある。 ソファに座らされ、 エリーが心配そうに見つめている。 翠はしばらく黙っていた。 やがて、ゆっくり口を開く。 「……僕は、実は」 喉が少し震える。 「深く触れられると……記憶の一部が、揺れることがある」 エリーは黙って聞いている。 「触れても平気なように、慣らしてきたけど……今日は、油断した」 視線を落とす。 「気持ち悪かったら、ごめん」 エリーは少し戸惑ったように息を吐き、 静かに言う。 「……大丈夫だ」 まっすぐ翠を見る。 「お前の音が、ちゃんとそこにある」 「それでいい」 その声は、 驚くほど静かだった。 エリーは立ち上がり、 そっとギターを手に取る。 何も言わずに。 弦を鳴らす。 とても静かな、 子守唄のような音。 闇を追い払うためじゃない。 ただ、隣にいるための音。 翠の呼吸が、 少しずつ整っていく。 夜は、まだ深い。 弦の余韻だけが、 ふたりのあいだに残っていた。
翠すいは、配信が終わってからも、 その余韻を抱えたままだった。 まだ、音がかすかに揺れている。 落ち着こうとしても、 呼吸だけが静まらない。 ──思い返せば。 幼い頃。 名前を呼ばれない日が続き、 世界の温度は、いつも少し低かった。 鍵盤に触れている間だけ、 心のざわめきが、どこか遠くへ引いていった。 イタリアで出会った師匠。 初めて、ありのままの自分を見てくれた人。 「いい音だ」 「そのままでいい」 「お前も、恋をするといい」 よく、そう言っていた。 でも。 ──誰かを、自分から想うなんて。 そんな未来は、 自分には遠いものだと思っていた。 それなのに。 今は、抑えきれない。 (……エリー) 会いたい。 名前を思っただけで、 胸が、ひとつ痛む。 その瞬間だった。 インターフォンが鳴った。 心臓が跳ねる。 モニターに映った顔を見て、 呼吸が止まる。
──エリー。 開けるか。 開けないか。 一瞬だけ迷い、 それでも「はい」と返した。 スピーカー越しの、低い声。 「俺も、会いたい」 その一言で、 胸の内側が静かにほどけた。 扉が開く。 エリーが、部屋に入ってくる。 ほんの数時間前まで一緒にいたのに、 何日も会っていなかったような気がした。 近づいた瞬間、 互いの腕が自然に回る。 強く抱いたわけじゃない。 それでも、離れられなかった。 翠が何か言おうとしたとき、 エリーが低く、決めた声で言う。 「……考える、はもうなしだ」 翠の喉が震える。 「……会いたかった」 ほとんど、息のような声。 ふたりは、 逃げ場のない距離で見つめ合う。 触れた、と思った。 次の瞬間、 唇の温度が、確かにそこにあった。 ──その瞬間。 胸の奥で、 何かが静かに開いた。
井戸の底。 暗闇の中で泣いている子供。 押し寄せる冷たさ。 言葉にならない孤独。 視界が揺れ、 涙が止まらなくなる。 「……どうした?」 エリーの声。 でも、もう焦点が合わない。 意識が、薄く霞む。 ──けれど。 いつもなら、 そのまま熱に沈んでいくはずだった。 今日は、違った。 あたたかい手のひらが、 翠を支えていた。 倒れない。 ふらつきながらも、 意識はここにある。 ソファに座らされ、 エリーが心配そうに見つめている。 翠はしばらく黙っていた。 やがて、ゆっくり口を開く。 「……僕は、実は」 喉が少し震える。 「深く触れられると……記憶の一部が、揺れることがある」 エリーは黙って聞いている。 「触れても平気なように、慣らしてきたけど……今日は、油断した」 視線を落とす。 「気持ち悪かったら、ごめん」 エリーは少し戸惑ったように息を吐き、 静かに言う。 「……大丈夫だ」 まっすぐ翠を見る。 「お前の音が、ちゃんとそこにある」 「それでいい」 その声は、 驚くほど静かだった。 エリーは立ち上がり、 そっとギターを手に取る。 何も言わずに。 弦を鳴らす。 とても静かな、 子守唄のような音。 闇を追い払うためじゃない。 ただ、隣にいるための音。 翠の呼吸が、 少しずつ整っていく。 夜は、まだ深い。 弦の余韻だけが、 ふたりのあいだに残っていた。