翠は、配信が終わってからも、
その余韻を抱えたままだった。
まだ、音がかすかに揺れている。
落ち着こうとしても、
呼吸だけが静まらない。
──思い返せば。
幼い頃。
名前を呼ばれない日が続き、
世界の温度は、いつも少し低かった。
鍵盤に触れている間だけ、
心のざわめきが、どこか遠くへ引いていった。
イタリアで出会った師匠。
初めて、ありのままの自分を見てくれた人。
「いい音だ」
「そのままでいい」
「お前も、恋をするといい」
よく、そう言っていた。
でも。
──誰かを、自分から想うなんて。
そんな未来は、
自分には遠いものだと思っていた。
それなのに。
今は、抑えきれない。
(……エリー)
会いたい。
名前を思っただけで、
胸が、ひとつ痛む。
その瞬間だった。
インターフォンが鳴った。
心臓が跳ねる。
モニターに映った顔を見て、
呼吸が止まる。

──エリー。
開けるか。
開けないか。
一瞬だけ迷い、
それでも「はい」と返した。
スピーカー越しの、低い声。
「俺も、会いたい」
その一言で、
胸の内側が静かにほどけた。
扉が開く。
エリーが、部屋に入ってくる。
ほんの数時間前まで一緒にいたのに、
何日も会っていなかったような気がした。
近づいた瞬間、
互いの腕が自然に回る。
強く抱いたわけじゃない。
それでも、離れられなかった。
翠が何か言おうとしたとき、
エリーが低く、決めた声で言う。
「……考える、はもうなしだ」
翠の喉が震える。
「……会いたかった」
ほとんど、息のような声。
ふたりは、
逃げ場のない距離で見つめ合う。
触れた、と思った。
次の瞬間、
唇の温度が、確かにそこにあった。
──その瞬間。
胸の奥で、
何かが静かに開いた。

井戸の底。
暗闇の中で泣いている子供。
押し寄せる冷たさ。
言葉にならない孤独。
視界が揺れ、
涙が止まらなくなる。
「……どうした?」
エリーの声。
でも、もう焦点が合わない。
意識が、薄く霞む。
──けれど。
いつもなら、
そのまま熱に沈んでいくはずだった。
今日は、違った。
あたたかい手のひらが、
翠を支えていた。
倒れない。
ふらつきながらも、
意識はここにある。
ソファに座らされ、
エリーが心配そうに見つめている。
翠はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり口を開く。
「……僕は、実は」
喉が少し震える。
「深く触れられると……記憶の一部が、揺れることがある」
エリーは黙って聞いている。
「触れても平気なように、慣らしてきたけど……今日は、油断した」
視線を落とす。
「気持ち悪かったら、ごめん」
エリーは少し戸惑ったように息を吐き、
静かに言う。
「……大丈夫だ」
まっすぐ翠を見る。
「お前の音が、ちゃんとそこにある」
「それでいい」
その声は、
驚くほど静かだった。
エリーは立ち上がり、
そっとギターを手に取る。
何も言わずに。
弦を鳴らす。
とても静かな、
子守唄のような音。
闇を追い払うためじゃない。
ただ、隣にいるための音。
翠の呼吸が、
少しずつ整っていく。
夜は、まだ深い。
弦の余韻だけが、
ふたりのあいだに残っていた。
