森の瞳と虹の聲

La voix entre l’ombre et la lumière

La voix entre l’ombre et la lumière

Chapitre XVII

夜に残る、音の欠片

夜に残る、音の欠片

夜はまだ

指先に残っている

名前のないぬくもり

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翠すいは、ソファーに深く沈んだまま、静かに眠っていた。 長い睫毛が、かすかに震えている。 エリーは立ち上がり、 そっとブランケットを肩先まで引き寄せた。 その仕草は、ほとんど無意識だった。 眠る顔を、もう一度だけ見つめる。 ──触れてはいけない。 そう思いながらも、指先がわずかに動く。 翠の睫毛に、そっと触れる。
触れた瞬間、眠りの呼吸が、ほんの少しだけ揺れた。 エリーは息を止めたまま、額へ静かなキスを落とす。 そこにあったのは、 欲望ではなく、澄んだ願いだけだった。 テーブルの上に、小さなメモを残す。 携帯番号を書き、 少し迷ってから、メールアドレスも添えた。 また近いうちに。 Bises Élie 短くそう残して、エリーは部屋を出た。 * 夜の東京を、一人で歩く。 冷たい空気が、頬を撫でていく。 肩のギターケースに目を落とす。 いつもなら揺れているはずのシュガーのマスコットは、 外れたままだった。 修理にも行かず、今日はそれすら気にならない。 (……あいつ、なのか) 何度も歩いた街なのに、 どこを歩いても、翠の音が頭の奥で響いている。 自分でも、少しだけ笑ってしまう。 (……俺、何やってんだ) そのとき、 不意に、遠い記憶の影が揺れた。 十歳の頃。 記憶は、今でもほとんど霧の中に沈んでいる。 それでも、 あの夜の“気配”だけは、身体のどこかが覚えていた。
舞台の光。 ざわめく客席。 衣装の擦れる音。 花の香り。 誰かが、自分の名を呼んだ気がした。 けれど、その声も、その言葉も、もう届かない。 車に乗った。 そこまでは、ぼんやりと輪郭がある。 その先だけが、暗く途切れている。 思い出そうとした瞬間、 胸の奥から吐き気が込み上げた。 足が止まる。 呼吸が乱れ、指先が冷たく震える。 その反応だけが、 何かがあったことを静かに告げていた。 ──その時だった。 ポケットのスマートフォンが、小さく震える。 見慣れない番号。 開く。 ぼくだ。 今日はありがとう。 エリーはいつまで日本? あさって、ライブ配信やるんだけど、一緒にどう? 夕食も作っておく。 よかったら。 Ciao 翠だった。 その瞬間。 胸の奥に沈んでいた苦しさが、 すっとほどけていく。 呼吸が戻る。 エリーは、ほとんど反射のまま返信した。 もちろん、いくよ。 ワインを持っていく。 送信。 すぐに、画面がまた光る。 マジネコのシュガーちゃん。 「夢はかなうよ」のポーズ。 思わず、何度も見返してしまう。 夜の東京。 人工の光が、 都会の空気を淡く染めていく。 今日、心に残った音の欠片。 それをひとつずつ拾い集めるように歩きながら── 久しぶりに、 生きている感覚が、 そっと戻ってきていた。
翠すいは、ソファーに深く沈んだまま、静かに眠っていた。 長い睫毛が、かすかに震えている。 エリーは立ち上がり、 そっとブランケットを肩先まで引き寄せた。 その仕草は、ほとんど無意識だった。 眠る顔を、もう一度だけ見つめる。 ──触れてはいけない。 そう思いながらも、指先がわずかに動く。 翠の睫毛に、そっと触れる。
触れた瞬間、眠りの呼吸が、ほんの少しだけ揺れた。 エリーは息を止めたまま、額へ静かなキスを落とす。 そこにあったのは、 欲望ではなく、澄んだ願いだけだった。 テーブルの上に、小さなメモを残す。 携帯番号を書き、 少し迷ってから、メールアドレスも添えた。 また近いうちに。 Bises Élie 短くそう残して、エリーは部屋を出た。 * 夜の東京を、一人で歩く。 冷たい空気が、頬を撫でていく。 肩のギターケースに目を落とす。 いつもなら揺れているはずのシュガーのマスコットは、 外れたままだった。 修理にも行かず、今日はそれすら気にならない。 (……あいつ、なのか) 何度も歩いた街なのに、 どこを歩いても、翠の音が頭の奥で響いている。 自分でも、少しだけ笑ってしまう。 (……俺、何やってんだ) そのとき、 不意に、遠い記憶の影が揺れた。 十歳の頃。 記憶は、今でもほとんど霧の中に沈んでいる。 それでも、 あの夜の“気配”だけは、身体のどこかが覚えていた。
舞台の光。 ざわめく客席。 衣装の擦れる音。 花の香り。 誰かが、自分の名を呼んだ気がした。 けれど、その声も、その言葉も、もう届かない。 車に乗った。 そこまでは、ぼんやりと輪郭がある。 その先だけが、暗く途切れている。 思い出そうとした瞬間、 胸の奥から吐き気が込み上げた。 足が止まる。 呼吸が乱れ、指先が冷たく震える。 その反応だけが、 何かがあったことを静かに告げていた。 ──その時だった。 ポケットのスマートフォンが、小さく震える。 見慣れない番号。 開く。 ぼくだ。 今日はありがとう。 エリーはいつまで日本? あさって、ライブ配信やるんだけど、一緒にどう? 夕食も作っておく。 よかったら。 Ciao 翠だった。 その瞬間。 胸の奥に沈んでいた苦しさが、 すっとほどけていく。 呼吸が戻る。 エリーは、ほとんど反射のまま返信した。 もちろん、いくよ。 ワインを持っていく。 送信。 すぐに、画面がまた光る。 マジネコのシュガーちゃん。 「夢はかなうよ」のポーズ。 思わず、何度も見返してしまう。 夜の東京。 人工の光が、 都会の空気を淡く染めていく。 今日、心に残った音の欠片。 それをひとつずつ拾い集めるように歩きながら── 久しぶりに、 生きている感覚が、 そっと戻ってきていた。