翠は、ソファーに深く沈んだまま、静かに眠っていた。
長い睫毛が、かすかに震えている。
エリーは立ち上がり、
そっとブランケットを肩先まで引き寄せた。
その仕草は、ほとんど無意識だった。
眠る顔を、もう一度だけ見つめる。
──触れてはいけない。
そう思いながらも、指先がわずかに動く。
翠の睫毛に、そっと触れる。

触れた瞬間、眠りの呼吸が、ほんの少しだけ揺れた。
エリーは息を止めたまま、額へ静かなキスを落とす。
そこにあったのは、
欲望ではなく、澄んだ願いだけだった。
テーブルの上に、小さなメモを残す。
携帯番号を書き、
少し迷ってから、メールアドレスも添えた。
また近いうちに。
Bises
Élie
短くそう残して、エリーは部屋を出た。
*
夜の東京を、一人で歩く。
冷たい空気が、頬を撫でていく。
肩のギターケースに目を落とす。
いつもなら揺れているはずのシュガーのマスコットは、
外れたままだった。
修理にも行かず、今日はそれすら気にならない。
(……あいつ、なのか)
何度も歩いた街なのに、
どこを歩いても、翠の音が頭の奥で響いている。
自分でも、少しだけ笑ってしまう。
(……俺、何やってんだ)
そのとき、
不意に、遠い記憶の影が揺れた。
十歳の頃。
記憶は、今でもほとんど霧の中に沈んでいる。
それでも、
あの夜の“気配”だけは、身体のどこかが覚えていた。

舞台の光。
ざわめく客席。
衣装の擦れる音。
花の香り。
誰かが、自分の名を呼んだ気がした。
けれど、その声も、その言葉も、もう届かない。
車に乗った。
そこまでは、ぼんやりと輪郭がある。
その先だけが、暗く途切れている。
思い出そうとした瞬間、
胸の奥から吐き気が込み上げた。
足が止まる。
呼吸が乱れ、指先が冷たく震える。
その反応だけが、
何かがあったことを静かに告げていた。
──その時だった。
ポケットのスマートフォンが、小さく震える。
見慣れない番号。
開く。
ぼくだ。
今日はありがとう。
エリーはいつまで日本?
あさって、ライブ配信やるんだけど、一緒にどう?
夕食も作っておく。
よかったら。
Ciao
翠だった。
その瞬間。
胸の奥に沈んでいた苦しさが、
すっとほどけていく。
呼吸が戻る。
エリーは、ほとんど反射のまま返信した。
もちろん、いくよ。
ワインを持っていく。
送信。
すぐに、画面がまた光る。
マジネコのシュガーちゃん。
「夢はかなうよ」のポーズ。
思わず、何度も見返してしまう。
夜の東京。
人工の光が、
都会の空気を淡く染めていく。
今日、心に残った音の欠片。
それをひとつずつ拾い集めるように歩きながら──
久しぶりに、
生きている感覚が、
そっと戻ってきていた。
