森の瞳と虹の聲

La voix entre l’ombre et la lumière

La voix entre l’ombre et la lumière

Chapitre XVIII

風に投げたものを、抱きしめる

風に投げたものを、抱きしめる

風に放った音を

君が抱きしめた夜

願いは、形を持ちはじめる

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約束していた夜は、 思っていたよりも、ずっと静かに始まった。 音が先に、 部屋の空気を満たしていく。 簡単な食事をとりながら、 ふたりは段取りを確かめる。 ワインは、まだ開けない。 今夜は、 音のほうが先だった。 配信の準備が整うと、 エリーはギターを抱え、 翠はピアノの前に座った。
最初は、エリーの新しい曲。 まだ言葉を持たない旋律が、 ゆっくりと部屋にひろがっていく。 翠すいは、それについていく。 追いかけるのではなく、 受け止めるように。 エリーが放った音は、 風にほどけるように宙へ浮かび、 翠はそれを、 さらに高く、遠くへ送り返していく。 飛んだ音に、 エリーの指先が触れる。 その温度を、 翠は静かに受け取った。 どこまで続いていくのか、 わからない。 熱と息だけが、 そっと行き交っていた。 いつの間にか、 視聴者の存在を、ふたりとも忘れていた。 一時間ほど経って、 配信を終える。 余韻だけが、 まだ部屋に残っている。 そこでようやく、 ワインを開けた。 チーズとチョコレートを並べる。 エリーの、 いつもの組み合わせだった。
向かい合って座る。 音の奥に沈めていた問いが、 静かに浮かび上がる。 先に口を開いたのは、エリーだった。 「……なにを、見た?」 真っ直ぐな声だった。 翠はすぐには答えず、 チョコレートをひとかけら、口に入れる。 ゆっくりと溶ける甘さを待ってから、 口を開いた。 「ぼくは……古い家に生まれた」 たどたどしいフランス語。 幼いころの記憶だけで辿るような、 簡単な単語ばかりだった。 「……うちの家は、昔から祈りの家系で」 「ときどき……特別な子が生まれるんだ」 エリーは、何も挟まずに聞いている。 「ぼくも、そのひとり」 翠は、言葉を探しながら続けた。 「なにかに触れると……その記憶に、触れてしまう」 「その記憶には、いつも願いがある」 少し息をつぐ。 「願いが届くと……身体が、すっと軽くなる」 「届かないときは、熱みたいに苦しくなる」 一拍、置いて。 「……不思議なんだ」 小さく笑う。 「シュガーちゃんを拾ったときも、一晩で治って」 視線を少し落とす。 「……この前も」 「触れたとき、熱が出なかった」 「意識も、ちゃんとあった」 そして、静かに言った。 「エリーは……特別」 その声は、ほとんど息に近かった。 「ぼくにとって……たぶん、特別なんだと思う」 言い切るようで、言い切らない。 それでも、翠の頬には、 かすかな熱が滲んでいた。 エリーは、しばらく黙って考えていた。 ──俺の願いは、叶っているのか。 まだ、わからない。 その問いが、そのまま唇にのぼる。 「……じゃあ」 かすかな声で、つぶやくように。 「……俺の願いは、なに?」 翠は、その続きを待った。 ただ、静かに。 エリーは、一度だけ息をついでから、言った。 「……解放、かな」 少し間を置く。 「空に……飛びたい」 言葉にした自分自身に、 少し驚いているようだった。 「最初に、おまえの鼻歌を聞いたときから」 「音が……自由に、流れ込んできて」 そこまで言って、言葉が止まる。 翠は、迷っていた。 言うべきか、 まだ胸の中に置いておくべきか。 けれど、静かに立ち上がる。 ピアノの前へ向かい、 そっと鍵盤に触れた。 淡い旋律が、 夜の中に生まれる。 石に囲まれた、深い底。 泣いている、子ども。 遠くで、月だけが光っている。 小さな手が、ひとつ、伸びる。 翠は、弾きながら言った。 「……子どもが、泣いている」 「石の底みたいな場所で」 「夜で、月だけが見えて」 「手が、ひとつ……伸びていた」 旋律は、淡く続く。 「それを見て……ぼくは、思った」 「その手を、そっとつかんで」 「そこから……連れ出すんだって」 そう言って、振り返る。 エリーの頬を、 ひと筋の涙が、音もなく伝っていった。
約束していた夜は、 思っていたよりも、ずっと静かに始まった。 音が先に、 部屋の空気を満たしていく。 簡単な食事をとりながら、 ふたりは段取りを確かめる。 ワインは、まだ開けない。 今夜は、 音のほうが先だった。 配信の準備が整うと、 エリーはギターを抱え、 翠はピアノの前に座った。
最初は、エリーの新しい曲。 まだ言葉を持たない旋律が、 ゆっくりと部屋にひろがっていく。 翠すいは、それについていく。 追いかけるのではなく、 受け止めるように。 エリーが放った音は、 風にほどけるように宙へ浮かび、 翠はそれを、 さらに高く、遠くへ送り返していく。 飛んだ音に、 エリーの指先が触れる。 その温度を、 翠は静かに受け取った。 どこまで続いていくのか、 わからない。 熱と息だけが、 そっと行き交っていた。 いつの間にか、 視聴者の存在を、ふたりとも忘れていた。 一時間ほど経って、 配信を終える。 余韻だけが、 まだ部屋に残っている。 そこでようやく、 ワインを開けた。 チーズとチョコレートを並べる。 エリーの、 いつもの組み合わせだった。
向かい合って座る。 音の奥に沈めていた問いが、 静かに浮かび上がる。 先に口を開いたのは、エリーだった。 「……なにを、見た?」 真っ直ぐな声だった。 翠はすぐには答えず、 チョコレートをひとかけら、口に入れる。 ゆっくりと溶ける甘さを待ってから、 口を開いた。 「ぼくは……古い家に生まれた」 たどたどしいフランス語。 幼いころの記憶だけで辿るような、 簡単な単語ばかりだった。 「……うちの家は、昔から祈りの家系で」 「ときどき……特別な子が生まれるんだ」 エリーは、何も挟まずに聞いている。 「ぼくも、そのひとり」 翠は、言葉を探しながら続けた。 「なにかに触れると……その記憶に、触れてしまう」 「その記憶には、いつも願いがある」 少し息をつぐ。 「願いが届くと……身体が、すっと軽くなる」 「届かないときは、熱みたいに苦しくなる」 一拍、置いて。 「……不思議なんだ」 小さく笑う。 「シュガーちゃんを拾ったときも、一晩で治って」 視線を少し落とす。 「……この前も」 「触れたとき、熱が出なかった」 「意識も、ちゃんとあった」 そして、静かに言った。 「エリーは……特別」 その声は、ほとんど息に近かった。 「ぼくにとって……たぶん、特別なんだと思う」 言い切るようで、言い切らない。 それでも、翠の頬には、 かすかな熱が滲んでいた。 エリーは、しばらく黙って考えていた。 ──俺の願いは、叶っているのか。 まだ、わからない。 その問いが、そのまま唇にのぼる。 「……じゃあ」 かすかな声で、つぶやくように。 「……俺の願いは、なに?」 翠は、その続きを待った。 ただ、静かに。 エリーは、一度だけ息をついでから、言った。 「……解放、かな」 少し間を置く。 「空に……飛びたい」 言葉にした自分自身に、 少し驚いているようだった。 「最初に、おまえの鼻歌を聞いたときから」 「音が……自由に、流れ込んできて」 そこまで言って、言葉が止まる。 翠は、迷っていた。 言うべきか、 まだ胸の中に置いておくべきか。 けれど、静かに立ち上がる。 ピアノの前へ向かい、 そっと鍵盤に触れた。 淡い旋律が、 夜の中に生まれる。 石に囲まれた、深い底。 泣いている、子ども。 遠くで、月だけが光っている。 小さな手が、ひとつ、伸びる。 翠は、弾きながら言った。 「……子どもが、泣いている」 「石の底みたいな場所で」 「夜で、月だけが見えて」 「手が、ひとつ……伸びていた」 旋律は、淡く続く。 「それを見て……ぼくは、思った」 「その手を、そっとつかんで」 「そこから……連れ出すんだって」 そう言って、振り返る。 エリーの頬を、 ひと筋の涙が、音もなく伝っていった。