約束していた夜は、
思っていたよりも、ずっと静かに始まった。
音が先に、
部屋の空気を満たしていく。
簡単な食事をとりながら、
ふたりは段取りを確かめる。
ワインは、まだ開けない。
今夜は、
音のほうが先だった。
配信の準備が整うと、
エリーはギターを抱え、
翠はピアノの前に座った。

最初は、エリーの新しい曲。
まだ言葉を持たない旋律が、
ゆっくりと部屋にひろがっていく。
翠は、それについていく。
追いかけるのではなく、
受け止めるように。
エリーが放った音は、
風にほどけるように宙へ浮かび、
翠はそれを、
さらに高く、遠くへ送り返していく。
飛んだ音に、
エリーの指先が触れる。
その温度を、
翠は静かに受け取った。
どこまで続いていくのか、
わからない。
熱と息だけが、
そっと行き交っていた。
いつの間にか、
視聴者の存在を、ふたりとも忘れていた。
一時間ほど経って、
配信を終える。
余韻だけが、
まだ部屋に残っている。
そこでようやく、
ワインを開けた。
チーズとチョコレートを並べる。
エリーの、
いつもの組み合わせだった。

向かい合って座る。
音の奥に沈めていた問いが、
静かに浮かび上がる。
先に口を開いたのは、エリーだった。
「……なにを、見た?」
真っ直ぐな声だった。
翠はすぐには答えず、
チョコレートをひとかけら、口に入れる。
ゆっくりと溶ける甘さを待ってから、
口を開いた。
「ぼくは……古い家に生まれた」
たどたどしいフランス語。
幼いころの記憶だけで辿るような、
簡単な単語ばかりだった。
「……うちの家は、昔から祈りの家系で」
「ときどき……特別な子が生まれるんだ」
エリーは、何も挟まずに聞いている。
「ぼくも、そのひとり」
翠は、言葉を探しながら続けた。
「なにかに触れると……その記憶に、触れてしまう」
「その記憶には、いつも願いがある」
少し息をつぐ。
「願いが届くと……身体が、すっと軽くなる」
「届かないときは、熱みたいに苦しくなる」
一拍、置いて。
「……不思議なんだ」
小さく笑う。
「シュガーちゃんを拾ったときも、一晩で治って」
視線を少し落とす。
「……この前も」
「触れたとき、熱が出なかった」
「意識も、ちゃんとあった」
そして、静かに言った。
「エリーは……特別」
その声は、ほとんど息に近かった。
「ぼくにとって……たぶん、特別なんだと思う」
言い切るようで、言い切らない。
それでも、翠の頬には、
かすかな熱が滲んでいた。
エリーは、しばらく黙って考えていた。
──俺の願いは、叶っているのか。
まだ、わからない。
その問いが、そのまま唇にのぼる。
「……じゃあ」
かすかな声で、つぶやくように。
「……俺の願いは、なに?」
翠は、その続きを待った。
ただ、静かに。
エリーは、一度だけ息をついでから、言った。
「……解放、かな」
少し間を置く。
「空に……飛びたい」
言葉にした自分自身に、
少し驚いているようだった。
「最初に、おまえの鼻歌を聞いたときから」
「音が……自由に、流れ込んできて」
そこまで言って、言葉が止まる。
翠は、迷っていた。
言うべきか、
まだ胸の中に置いておくべきか。
けれど、静かに立ち上がる。
ピアノの前へ向かい、
そっと鍵盤に触れた。
淡い旋律が、
夜の中に生まれる。
石に囲まれた、深い底。
泣いている、子ども。
遠くで、月だけが光っている。
小さな手が、ひとつ、伸びる。
翠は、弾きながら言った。
「……子どもが、泣いている」
「石の底みたいな場所で」
「夜で、月だけが見えて」
「手が、ひとつ……伸びていた」
旋律は、淡く続く。
「それを見て……ぼくは、思った」
「その手を、そっとつかんで」
「そこから……連れ出すんだって」
そう言って、振り返る。
エリーの頬を、
ひと筋の涙が、音もなく伝っていった。
