エリーが泣いているあいだ、
翠は席を立たなかった。
近づかない。
触れない。
そのかわり、
そっと鍵盤に指を置く。
低く沈む和音が、
静かに空気へほどけていく。
さきほどの旋律の、その続き。
言葉の代わりに差し出すような音だった。
抱き上げるのではなく、
眠りに落ちるまで隣で歌い続けるように。
エリーは、その音に呼吸を重ねるようにして、
涙の余韻を少しずつ鎮めていった。
やがて涙が止むころ、
ワインをひと口、静かに含む。
その仕草さえ、
どこか頼りなかった。
そして、不意に言った。
「……東京の夜ってさ」
窓辺へ歩き、
滲む夜景を見つめながら、続ける。
「なんだか、ワクワクするよね」
軽い言葉だった。
けれど、その軽さが、
今はちょうどよかった。
グラスを置く。
エリーは、
音に引かれるように、
またこちらへ戻ってくる。
翠のすぐ後ろ。
衣服越しに、
かすかな体温が届く距離で立ち止まり、
小さく息を飲んでから、
そっと尋ねた。
「……触れても、いい?」
翠は演奏を止めないまま、
わずかに首を傾ける。
それだけで、十分だった。
そっと腕がまわる。
抱きしめるというより、
ただ、距離をなくすためだけの腕。
胸のあたたかさが、
背中越しにゆっくりと染みてくる。
顔を寄せる気配。
耳元で、息が揺れた。
一瞬だけ、かすめるようなキス。
それだけで、翠の呼吸がわずかに乱れる。
「……俺を、連れ出してくれ」
その囁きは、
途切れそうな祈りそのものだった。
翠は目を閉じたまま、
その言葉を音へと変えていく。
解放を願う和音。
空へと細く伸びていく旋律。

その音に引かれるように、
エリーの唇がもう一度寄ってくる。
今度は、少しだけ深く。
翠の指が、ふっと止まった。
音が消える。
静寂だけが残り、
その静けさが、ひどく甘い。
翠はゆっくりと振り向いた。
迷いなく、
エリーの首へ腕をまわす。
キスをしたまま、立ち上がる。
抱き寄せるというより、
互いに体重を預け合うように、
静かに重なっていく。
大きな窓の向こうで、
東京の夜景がやわらかく滲んでいた。
二人の影が、
ゆっくりとひとつに重なり、
ガラスに静かに揺れている。
音は、
もう鳴っていない。
それでも余韻だけが、
部屋の隅々に、
まだ残っていた。

