キスのあと、
すぐには動かなかった。
息が戻るまでの、
わずかな静けさだけがあった。
翠は、視線を落とし、
唇に残った温度をそっと確かめていた。
「……初めてだった」
すくうような、小さな声。
言葉を探しながら、
途切れ途切れに続く。
「こういうの。人に、ちゃんと触れて……」
呼吸が、ひとつ揺れた。
「……嫌じゃなかった。それどころか……」
言い切れないまま、
翠はわずかに笑う。
「……変だけど」
少しだけ間が落ちて、
「……気持ち、よかった……気がする」
言葉は、そのまま残った。
エリーの胸の奥で、
何かがゆっくり動いた。
腕を伸ばせば届く距離。
抱きしめる理由はいくつもあった。
──それでも、動かなかった。
触れれば、
戻れなくなる気がした。
この静けさを壊したくなかった。
エリーは、そっと息を吐き、
椅子に腰を下ろした。
「……少し、弾いてもいいか」
翠は小さく頷く。
ギターを膝に置くまでの仕草が、
やわらかい沈黙の中で、
ゆっくり伸びていく。

指が弦に触れ、
最初の一音が落ちた。
低く、深い音。
旋律は整っていないのに、
どこか懐かしい。
夜の温度に溶けていくような音だった。
「……俺さ」
エリーは弾きながら言う。
翠のほうを見ないまま。
「目が覚めたとき、何も覚えてなかった」
指先が、かすかに震えた。
「暗いところが、だめなんだ。
どうしてなのか……まだ思い出せない」
その先は、音が引き受けた。
低音が沈み、
高音が揺れ、
言えなかった痛みを、
少しずつすくい上げる。
「……ずっと、平気なふりをしてた」
落とした言葉が、
音の中に吸い込まれる。
「でも今は」
一瞬、演奏が止まり──
「お前が、ここにいる」
再び鳴った音は、
さっきより少し、あたたかかった。
翠は身じろぎもせず、
胸の奥に落ちてくる音をきいていた。
触れてはいないのに、
音が胸のどこかにそっと触れる。
怖さも痛みも、
全部がわかったわけじゃない。
でも──
この音だけは、
嘘には聞こえなかった。
そう思った瞬間、
部屋の空気がかすかに変わった。
名前のつかない変化。
触れれば戻れなくなる、
手前の気配。
演奏が終わると、
静寂が戻った。
翠はしばらく黙っていたが、
やがて小さく息を吐いて言った。
「……ね」
エリーを見る。
「今の音──」
そこから先の言葉が出てこなかった。
代わりに、
翠はそっと手を伸ばし、
エリーの袖を、
指先でつまんだ。

その仕草だけで、
じゅうぶんだった。
音が先に触れてしまうものに、
人が追いつくには、
まだ時間がいる。
けれど──
何かが、
もう元には戻らなかった。
静かに。
深く、
残っていた。

