着信音が、
部屋の空気をふっと切った。
エリーは画面を見て、
わずかに眉を寄せる。
フランスの番号だった。
「……仕事だ」
声はいつも通りで、
それなのに、
どこか遠い場所へ引かれていく響きがあった。
「少し確認して、折り返す。一度、ホテルに戻る」
翠は静かに頷いた。
「……ぼくも、少し歩くよ」
説明ではなく、
ただの選択。
夜には、
それだけで十分だった。
外に出ると、
冷えた空気が頬に触れる。
都会の光が、
遠くでざわめいている。
別れ際、
翠は一歩だけ近づいた。
ほんの一瞬迷ってから、
そっと腕をまわす。
抱きしめるほどではなく、
逃げ道を残す、
短い抱擁。
頬が自然に寄り、
その近さだけが、
確かな温度として息をした。

「……また」
「……会いたい」
低く、
揺らぎのない声だった。
エリーはわずかに固まり、
それから、
抱きしめ返す腕に静かな熱をこめた。
「……ああ」
短い返事を残し、
足早に夜へ滲んでいく。
姿が角を曲がって消えるまで、
翠は立ち尽くしていた。
夜の色が、
ゆっくり戻る。
歩き始めると、
街の音がいつもより柔らかく聞こえた。
車の音、
人の声、
風の抜ける気配。
その全部が、
胸の奥のあたたかさと混ざり合う。
落ち着いているのに、
どこかだけ速い。
また、会いたい。
ただ、
それだけが残る。
東京タワーが、
いつもより近く見えた。
翠はベンチに腰を下ろし、
無意識に携帯を手に取る。
ライブ配信アプリを開くまでに、
ほとんど迷いはなかった。
口笛で、
短い旋律。
夜に溶ける、
細い音。
それから、
囁くように歌う。

ふれた君のくちびるが
やわらかくてあたたかい
耳もとで落ちた声が
胸の奥をそっとゆらす
ほんの数行。
息の温度だけが、
残った。
コメントが流れ込む。
──本人?
──どこ!?
──まだ東京?
翠ははっとして顔を上げる。
「……しまった」
外だった。
慌てて配信を切り、
立ち上がる。
それなのに、
歩き出す足は軽かった。
以前なら、
しなかった。
でも今は、
そのままにした。
夜の中を歩きながら、
翠は思う。
この鼓動も、
連れていける。
足は止まらなかった。
