通知音が、
静かな部屋の温度をわずかに変えた。
画面には、
短い文字だけが残っていた。
わるい、急遽戻る。
また連絡する。
Bises
Élie
理由は書かれていない。
言葉の奥だけが、
胸に落ちる。
翠は携帯を伏せ、
しばらく動かなかった。
会えることは、
もともと、
かすかな奇跡だった。
なのに。
部屋は、
いつもより静かだった。
こういう夜は音を鳴らすはずなのに、
指先は鍵盤の上に置かれたまま、
沈黙がほどけない。
時間がゆっくり積もるほど、
胸の奥のずれだけが、
浮かび上がる。

夜になって、
ようやく音が出た。
特別な曲を選んだわけではない。
身体が覚えている配置だけをたどる。
音は鳴る。
けれど、
ごく小さなところで噛み合わない。
高音がひと呼吸だけ遅れ、
間が、いつもより深く落ちる。
そこには、
まだエリーの息づかいが残っていた。
触れた温度、
寄った頬、
耳元に落ちた声の残り香。
余韻が、
音の輪郭を揺らす。
配信を切ると、
コメントが並んでいた。
──今日、なんか切なかったね
──胸がきゅっとした
──シュガー、どうしたの?
翠は画面を伏せた。
違いは、
わからない。
合わない感覚だけが、
残る。
片付けようとしたとき、
ギターケースの脇に小さな金属が落ちているのに気づいた。
音叉。
古びた、くすんだ金属。
触れると、
ひんやりとした重さが、
掌にゆっくり沈む。
「……エリーの、だ。」
胸が、
わずかに揺れた。
翠は息を整え、
心の奥をそっと開く。

音は、
すぐには来なかった。
白い揺らぎ。
遠い笑い声。
その奥に沈む、小さな影。
何かが、
ふさがれている。
言葉ではなく、
音そのものが閉じこめられていく感覚。
胸がきゅっと締め付けられ、
視界がゆらいだ。
エリー。
低くて、少しハスキーで、
耳元に落ちると温度を残す声。
思い出しただけで、
力が抜けた。
熱が、
静かに落ちる。
──どうして。
理由はわからない。
ただ、
エリーだけが翠の負荷を軽くする。
意識が静かに戻っていく。
しばらくして、
翠は携帯を手に取った。
迷いは、
ごく短い。
発信音。
すぐに返ってくる、
澄んだ優しい声。
「もしもし?」
「あの……翠です」
「あら。お久しぶり」
変わらない声音が、
胸の奥のざわめきをそっと撫でる。
「今、東京?」
「はい」
「そう。元気?」
「……はい」
一拍、間。
翠は小さく息を整えてから言った。
「……お伺いしたいことがあって」
返事はすぐだった。
「鎌倉にいらっしゃいな。
少し早いけど、山菜の天ぷら、食べましょう」
理由は、聞かれない。
そのやわらかい優しさが、
胸にゆっくり落ちた。
通話が切れる。
翠は音叉を握りしめる。
合わない音は、
まだ揃わない。
答えも、
まだ見えない。
それでも──
行き先だけは、
揺れなかった。
