航空券の予約が、
確定した。
決めたというより──
流れにそっと背を押された。
携帯を閉じる前に、
メッセージをいくつか送る。
多くは書かない。
今は、
それで十分。
羽田へ向かう間、
街の音がいつもより遠い。
表示板の中で、
ひとつだけ視線が吸い寄せられた。
──パリ。
確かめるように見つめ、
歩き出す。
搭乗を待つ間、
携帯を開く。
「着いたら連絡する。」
それだけを打って送る。
──彼に。
返事はなかった。
それでも、
胸は静かだった。
*
機内は、
夜のように落ち着いていた。
雲を抜けると、
時間がゆっくり溶けていく。
翠の指が無意識に動き、
検索窓に名前を打ち込む。
エリー。
ロンドンでの公演。
記事や映像が並ぶ。

再生すると、
音が空気を押し広げた。
強いのに、
乱暴ではない。
知らない客席。
知らない光。
その中で、
ずっとこの音を支えてきた人なのだと知る。
思っていたより、
遠い光の中にいた。
それが、
少しだけ意外で──
そのまま、
胸に残った。
音を追う内に、
機体はいつの間にか降下を始めていた。

パリ。
地面に触れた瞬間、
体の奥が、
ゆっくりほどかれていく。
携帯には、
いくつかの通知があった。
ルル。「待ってるね。」
セシル。「迎えに行けなくてごめん。」
その下に、
ひとつだけ胸が動く。
「もういるよ。」
立ち止まったまま、
通話ボタンを押す。
「コートは?」
先に届いたのは、
その声だった。
一瞬、
言葉が出てこない。
急いで来たせいで、
コートを忘れていたことに気づく。
白いシャツ。
あたたかいカーディガン。
そしてなぜか、
白いマフラーとニット帽だけ。
顔を上げる。
エリーがいた。
ここはパリ。
自分の半分を過ごした場所。
身体が先に動いていた。
胸に触れる。
そのまま、
引き寄せられる。
「おかえり、翠」
強く抱きしめられる。
三度のビズ。
そして、
そっと、もう一度。
言葉は、
必要なかった。
車に乗ると、
街の灯りが静かに流れる。
「仕事、大丈夫?」
「平気」
それ以上、
話さない沈黙が、
妙にやわらかかった。
「荷物、それだけ?」
「うん」
「このまま、行ける?」
「……どこに?」
「会場」
翠は、
小さく頷いた。
車は、
ゆっくりと動き出す。
*
扉が開いた瞬間、
音だけが先にこちらへ触れた。
ピアノ。
知らない旋律。
でも、
空気が張りつめている。
翠は一歩だけ足を止め、
エリーが振り返る。
「中、入るよ」
翠は、
静かに頷いた。
音が──
たしかに、待っていた。
