目が合ったまま、どちらも立ち止まらなかった。
走りもしない。
逃げもしない。
夜の中で、同じ速さのまま、
距離だけが静かに縮まっていく。
翠の中は、公園に着くまで
ずっと音で満ちていた。
都会のざらついた音、月明かりの白さ、冷えた空気。
それらが重なり、胸の奥でゆっくり流れになる。
エリーは逆に、やけに明るい雰囲気をまとっていた。
本性を隠すように、
いつもより軽く、明るく振る舞っている。
エリーが先に口を開く。
「Bonsoir.」
(こんばんは)
にっと笑って続ける。
「On s’est déjà vus, non ?」
(前に会ったよね?)
間を置かず、立て続けに。
「Ça va ?
Tu te sens mieux ?
T’as l’air en forme.」
(大丈夫? 体調は? 元気そうだけど)
翠は返事をしようと、言葉を探して──
喉の奥で、小さな音が漏れた。
「……ミャ」
短く、掠れた、無防備な音。
数秒の沈黙。
エリーがきょとんとして瞬きをする。
自分でも驚いて、翠は目を伏せた。
その一瞬、
ふたりのあいだの空気が、かすかに甘く揺れた。
やがて、どちらからともなく笑った。
声にならない静かな笑い。
でも同じ呼吸で、同じタイミングで。
気まずさはなかった。
視線を外し、歩き出す。
特に誘い合うでもなく。
気づけば、同じベンチに腰を下ろしていた。
肩が触れないほどの距離なのに、
体温だけが静かに伝わる。
夜の公園は静かで、
月明かりが足元に淡い影を落としていた。
エリーは少し間を置いてから、
膝の上にギターを乗せる。

言葉の代わりに、音。
指が弦をはじくと、
軽いビートに溶けるような、
柔らかなメロディが流れ出す。
夜をほどくためではなく、
はじめての名を渡すための、明るい音。
「ここにいていい」
エリーの指先が紡ぐ響きが、
──そっと伝えていた。
最後の一音が、夜に溶ける。
エリーは、歌の続きを言うように静かに口を開いた。
「Je m’appelle…」
(僕の名前は……)
ほんの一拍。
「Elie.」
(エリー)
翠は、すぐには言葉を返さなかった。
代わりに、小さく鼻歌をひとつ。
温かいスープを思わせる、
やわらかな旋律。
湯気が立ちのぼるように、
音が少しだけ上へひらく。
歌い終わって、そっと。
「……翠」
エリーが目を細める。
その一瞬、
長いまつ毛の下で揺れた翠の瞳が、
深い森にふっと光が差したように見えた。
「C’est ta musique ?」
(それ、君の音楽?)
翠はわずかに目を伏せ、
胸の前でそっと両手を包む──
あの夜、スープの温もりを抱いたときと同じ仕草。
そして囁くように。
「……Merci.」
(ありがとう)
夜の公園に、
言葉にならなかった感情と、
音の余韻だけが残っていた。

